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役員退職金を活用した会社売却の節税|手取りを最大化する方法

「会社を売却することになったら、自分の退職金はどう扱われるのだろう」「長年働いてくれた従業員の退職金は、誰がどう負担するのか」——会社売却を検討し始めた経営者の多くが、譲渡価格や引き継ぎ後の事業の行方と並んで、こうした疑問を抱えています。退職金は自分自身や従業員のこれからの生活に直結するテーマであるにもかかわらず、体系立てて教えてくれる相手が身近におらず、後回しにしてしまいがちな論点でもあります。
会社売却全体の流れやメリット・デメリット、税金までまとめて知りたい方はこちらの記事もあわせてご覧ください。

日々の資金繰りや事業運営に追われる中で、退職金のように「話がまとまってから考えればよい」と思われやすいテーマについて、事前に調べる時間を確保するのは簡単ではありません。しかも退職金の取り扱いは税務・労務が複雑に絡み合うため、独力で正確に理解するのは容易ではなく、仲介会社やアドバイザーに聞くタイミングを逃してしまう方も少なくないでしょう。
実際には、退職金の取り扱いは会社売却で用いる手法(株式譲渡か事業譲渡かなど)や、対象が役員か従業員かによって大きく異なります。あらかじめ基本的な仕組みと考え方を押さえておくことで、仲介会社との打ち合わせや買い手との交渉に落ち着いて臨みやすくなり、資金繰りの計画も立てやすくなります。
そこで本記事では、会社売却における退職金の基本知識から、手法別の取り扱いの違い、役員・従業員それぞれの計算方法、かかる税金、活用するメリットと見落としがちなリスク、実務の流れ、業種・規模による論点、交渉のポイント、よくある失敗パターンまで、情報収集を始めたばかりの経営者の視点に立って体系的に解説します。
この記事の監修者

森沢 雄太
一般社団法人
M&Aセカンドオピニオン協会
代表理事
外資系銀行でのウェルスマネジメント業務を経て、日本M&Aセンターに入社。譲渡側アドバイザーとして100件超の成約に関与し、野村證券出向や福岡支店立ち上げも経験。2018年に日本投資ファンド立ち上げに参画し、投資先の再生にも成功。2022年、合同会社M&Aプレップを創業し、仲介会社・ファンドへの支援やオーナー向け売却準備、買収支援など幅広く展開。2024年には売却支援事業拡大のため株式会社企業経営支援機構を設立し代表に就任。加えて、M&Aにおける利益相反や情報格差の是正を目的とし、代表理事として一般社団法人M&Aセカンドオピニオン協会を設立。
会社売却における退職金の基本知識

退職金とは何か(法的位置づけ)
退職金とは、従業員や役員が会社を退職する際に、それまでの勤続や功績に対する対価として支給される金銭を指します。多くの経営者が誤解しやすい点ですが、退職金の支給は法律上の義務ではありません。労働基準法には退職金の支給を一律に義務付ける規定はなく、会社が就業規則や退職金規程で退職金制度を定めた場合に、初めて支払い義務が生じる仕組みになっています。裏を返せば、退職金規程が存在しない会社では、法的には退職金を支給する義務そのものが発生しません。会社売却の場面では、まず自社に退職金規程があるかどうか、あるとすればどのような支給基準になっているかを確認することが、検討の出発点になります。
退職金には、退職時に一括で支給される退職一時金のほか、企業年金(確定給付企業年金・確定拠出年金など)として分割的に支給する形式もあります。中小企業では退職一時金の形式が中心ですが、企業によっては中小企業退職金共済(中退共)などの外部機関を活用して退職金原資を積み立てているケースもあります。
会社売却でなぜ退職金が論点になるのか
会社売却において退職金が論点になる背景には、大きく二つの側面があります。一つ目は、経営者自身の役員退職金をどう設計するかという側面です。譲渡対価の受け取り方として、株式の譲渡代金だけでなく役員退職金を組み合わせることで、税負担の考え方が変わってくるため、事前の設計が重要になります。二つ目は、既存の従業員の退職金制度を売却後どう扱うかという側面です。会社そのものを引き継ぐのか、事業だけを個別に引き継ぐのかによって、退職金債務の承継のされ方や従業員への影響が大きく変わります。
この二つの側面は、いずれも会社売却で用いる手法(スキーム)によって取り扱いが変わってくるため、次の章でスキームごとの違いを整理します。
会社売却の手法別に見る退職金の取り扱い

会社売却には株式譲渡・事業譲渡・会社分割・合併といった手法があり、それぞれ退職金の取り扱いが異なります。自社がどの手法を採用するかによって、退職金債務の承継のされ方や、従業員の労働契約の扱いが変わってくるため、まずは手法ごとの違いを比較表で確認しましょう。
| 手法 | 退職金債務の扱い | 従業員の労働契約 | 実務上のポイント |
|---|---|---|---|
| 株式譲渡 | 会社に残り、そのまま引き継がれる | 原則としてそのまま継続する | デューデリジェンス(DD)で退職給付引当金や簿外債務が精査される |
| 事業譲渡 | 当然には承継されず、譲渡契約・個別合意の内容に応じて清算・通算・代替措置等を設計する | 自動的には承継されず、従業員本人の個別同意が必要 | 転籍しない従業員への退職金支払いが必要になる場合がある |
| 会社分割 | 分割契約書・分割計画書の定めに応じて承継内容を整理する | 労働契約承継法に基づき、対象事業に主として従事する従業員は原則承継される | 分割契約書・分割計画書に承継対象を明記する必要がある |
| 合併 | 消滅会社の権利義務を包括的に承継する | 包括的に承継される | 存続会社側の退職金制度との統合調整が必要になることがある |
株式譲渡の場合の退職金
株式譲渡は、売り手企業の株主が保有する株式を買い手に譲渡し、経営権を移転させる手法です。会社という法人格そのものは存続するため、既存の退職金規程や退職給付債務は、原則としてそのまま会社に残ります。従業員から見ると雇用主が変わらないため、労働契約や退職金の権利義務にも直接的な変更は生じません。
株式譲渡の具体的な仕組みやメリット・デメリットについては、株式譲渡とはで詳しく解説しています。
一方で、買い手が実施するDDでは、退職給付引当金が適切に計上されているか、将来支払うべき退職金の総額(退職給付債務)がどの程度になるかが精査対象になります。引当金の計上が不十分だったり、退職金規程の内容が実態と乖離していたりすると、譲渡価格の減額交渉につながる可能性があるため、売却を検討し始めた段階で自社の退職給付債務を正確に把握しておくことが重要です。
なお、株式譲渡では、経営者自身が退任するにあたって役員退職金を活用した対価設計が行われることがあります。この点は後述の「役員・社長が会社売却時に受け取る退職金の取り扱いと計算方法」で詳しく解説します。
事業譲渡の場合の退職金
事業譲渡は、会社が営む事業の全部または一部を、資産・契約・従業員などを個別に選んで買い手に譲渡する手法です。株式譲渡と異なり会社そのものは譲渡されないため、従業員との労働契約は自動的には買い手に承継されません。買い手企業へ転籍させるには、対象となる従業員一人ひとりから個別に同意を得たうえで、新たに雇用契約を締結し直す必要があります。
事業譲渡の具体的な手続きやメリット・デメリットについては、事業譲渡とはで詳しく解説しています。
転籍する従業員の退職金については、譲渡企業が転籍前の勤続年数分をいったん精算して支払うケースと、譲受企業が勤続年数を通算して引き継ぐケースの両方があり、どちらを採るかは当事者間の交渉次第です。退職金債務は事業譲渡によって当然に承継されるものではなく、譲渡契約の内容や転籍条件、退職金規程の定めに応じて、清算・通算・代替的な措置などを個別に設計する必要があります。転籍に同意せず退職を選ぶ従業員がいる場合には、自社の退職金規程や個別合意の内容によっては、譲渡企業がその従業員に対して退職金を支払う義務が生じることがあるため、対象となる従業員の人数や退職金規程の内容によっては、想定より大きな資金負担が発生する可能性がある点に注意が必要です。
会社分割・合併の場合の退職金
会社分割は、会社の事業の一部を切り出して、新設会社または既存の会社に包括的に承継させる手法です。労働契約承継法に基づき、承継される事業に主として従事している従業員の労働契約は、原則として自動的に承継されます。退職金債務についても、対象事業に関連する部分は事業とともに承継されるのが原則的な考え方ですが、「対象事業に関連するから当然に承継される」と単純化はできず、承継の対象となる従業員の範囲や退職金債務の取り扱いは、分割契約書・分割計画書に具体的に明記したうえで、労働条件・退職金制度の整理を個別に行う必要があります。この記載内容の精査が実務上のポイントになります。
合併は、2つ以上の会社が1つの会社に統合される手法で、吸収合併と新設合併があります。消滅する会社の権利義務は存続会社(または新設会社)に包括的に承継されるため、退職金債務もそのまま引き継がれます。ただし、存続会社側にすでに独自の退職金制度がある場合、両社の制度をどう統合するかという調整が必要になることがあります。
役員・社長が会社売却時に受け取る退職金の取り扱いと計算方法

会社売却に伴って経営者自身が退任する場合、役員退職金の設計は譲渡対価全体の手取り額に影響する重要なテーマです。ここでは、役員退職金の計算方法の考え方と、活用する際の節税に関する基本的な考え方を解説します。
役員退職金の計算方法(功績倍率法)
役員退職金の適正額を検討する際に実務でよく用いられるのが、功績倍率法と呼ばれる考え方です。計算式は「最終報酬月額×役員在任年数×功績倍率」で表され、代表取締役(社長)の場合は功績倍率を3.0倍程度とするのが一つの目安とされることが多いとされています。この目安は、昭和55年5月26日の東京地裁判決を契機に実務上定着したものであり、法令で定められた絶対的な基準ではありません。同業・同規模の類似法人の水準なども踏まえて総合的に判断されるべきものである点には注意が必要です。
功績倍率法によって算定した金額が、税務上「不相当に高額」と判断された場合、その超過部分は会社側で損金に算入できず、法人税の負担が増えるリスクがあります。役員退職金の金額設定が自社にとって妥当かどうかは個々の状況によって判断が分かれるため、契約を進める前に税理士や中立的な第三者の意見を聞いておくという選択肢も検討する価値があります。金額の根拠となる最終報酬月額・在任年数・功績倍率の考え方を、あらかじめ資料として整理しておくと、買い手や税務当局への説明もスムーズになります。
役員退職金を活用した節税の考え方
株式譲渡による対価をすべて株式の譲渡代金として受け取る場合、譲渡益には原則として20.315%(所得税15.315%[復興特別所得税を含む]+住民税5%の合計、国税庁)の申告分離課税が適用されます。これに対し、対価の一部を役員退職金として受け取る場合、退職所得の金額は「(収入金額-退職所得控除額)×1/2」という計算式で算出され、他の所得と合算せずに分離して課税される仕組みになっています。控除額を差し引いたうえでさらに2分の1を乗じる計算方法のため、条件によっては手取り額を増やせる余地があるとされ、株式譲渡と役員退職金を組み合わせた対価設計が実務で行われることがあります。ただし、役員等勤続年数が5年以下の場合は「特定役員退職手当等」に該当し、2分の1課税の適用がなくなる点には注意が必要です(詳細は後述の「役員退職金と従業員退職金の課税の違い」で解説します)。
退職金以外も含めた会社売却全体でかかる税金の仕組みについては、会社売却にかかる税金で詳しく解説しています。
ただし、どちらの受け取り方が有利になるかは、在任年数・最終報酬月額・譲渡対価の総額・その他の所得状況など個々の事情によって異なり、一概に断定できるものではありません。また、株式譲渡代金の一部を役員退職金に振り替える対価設計については、実態を伴わない名目上の変更と判断されると、税務上の否認リスクにつながる可能性があります。退職の事実や退職金決議、支給実態が対価設計と整合しているかを確認したうえで進める必要があります。具体的な設計を検討する際は、必ず税理士に試算を依頼したうえで判断することをおすすめします。
従業員が会社売却時に受け取る退職金の取り扱いと計算方法

役員だけでなく、長年勤めてきた従業員の退職金についても、会社売却に際してどう扱われるかを整理しておく必要があります。
従業員退職金の主な計算方式
従業員の退職金の計算方式は会社の退職金規程によって異なりますが、実務でよく見られる方式として、退職時の給与額を基準に計算する最終給与連動方式、在籍期間全体の平均給与を基準にする全期間平均給与方式、勤続年数や役職に応じて金額を定めた別テーブル方式、勤続年数のみに応じて定額を支給する勤続年数別定額方式、日々の評価や貢献度をポイントとして積み上げるポイント制方式などがあります。自社がどの方式を採用しているかによって、退職金の総額や将来の見込み額の算定方法が変わってくるため、就業規則・退職金規程を早い段階で確認しておくことが大切です。
転籍・退職時の退職金の取り扱い
事業譲渡などで従業員が買い手企業へ転籍する場合、転籍前の勤続年数を通算するかどうかは、譲渡企業と譲受企業の交渉によって決まります。通算される場合は、転籍後も勤続年数が継続してカウントされ、将来の退職金額に反映されますが、通算されない場合は、転籍前の勤続年数分をいったん精算して退職金を支払い、転籍後は新たに勤続年数のカウントが始まる形になります。
退職所得控除額は勤続年数に応じて計算されるため、通算の有無によって従業員が将来退職金を受け取る際の税負担が変わる可能性があります。従業員にとって影響の大きいテーマであるため、転籍条件を検討する段階で、退職金の通算方針についても明確にし、丁寧に説明しておくことが望ましいでしょう。
退職金にかかる税金と計算方法

役員退職金・従業員退職金のいずれも、受け取る個人にとっては「退職所得」として所得税・住民税が課税されます。ここでは課税の基本的な考え方と、控除額の計算方法を確認します。
役員退職金と従業員退職金の課税の違い
退職金は、他の給与所得などとは切り離して税額を計算する分離課税の対象です。退職所得の金額は原則として「(収入金額-退職所得控除額)×1/2」で計算され、算出された金額に所得税・復興特別所得税・住民税が課されます(国税庁)。ただし、この2分の1課税には例外があります。役員等勤続年数が5年以下の役員が受け取る退職手当等(特定役員退職手当等)は2分の1課税が適用されず、収入金額から退職所得控除額を差し引いた金額がそのまま退職所得となります。従業員についても、勤続年数が5年以下の場合(短期退職手当等)は、控除後の金額のうち300万円を超える部分について2分の1課税が適用されません(国税庁)。役員・従業員のいずれが受け取る場合でも基本的な計算の枠組みは共通ですが、勤続年数が短い場合はこうした例外に該当しないかをあわせて確認しておく必要があります。
一方、会社側の取り扱いには違いがあります。従業員に支払う退職金は、その支給が就業規則・退職金規程等に沿い、社会通念上相当と認められる限り、原則として全額を損金に算入できます。これに対し役員に支払う退職金は、前章で触れたとおり、不相当に高額と判断された部分について損金算入が否認されるリスクがある点が異なります。役員退職金を設計する際は、この会社側の損金算入可否も踏まえて金額を検討する必要があります。
退職所得控除額の計算方法
退職所得控除額は、勤続年数に応じて次のように計算されます(国税庁)。
| 勤続年数 | 退職所得控除額の計算式 |
|---|---|
| 20年以下 | 40万円 × 勤続年数(80万円に満たない場合は80万円) |
| 20年超 | 800万円 + 70万円 ×(勤続年数-20年) |
例えば勤続年数10年であれば控除額は400万円、勤続年数30年であれば800万円+70万円×10年=1,500万円となります。勤続年数の1年未満の端数は1年に切り上げて計算します。
なお、令和7年度(2025年度)税制改正により、確定拠出年金(DC)の老齢一時金を受け取った後に退職金を受け取る場合の退職所得控除の重複排除に関する調整期間が、従来の「前年以前4年内」から「前年以前9年内」に拡大され、2026年1月1日以後に支払われる退職手当等から適用されています。確定拠出年金の一時金と会社からの退職金の両方を受け取る予定がある経営者・従業員は、受け取り時期によって控除額の計算が変わる可能性があるため、事前に税理士へ確認しておくことをおすすめします。
会社売却で退職金の仕組みを活用するメリット

退職金の仕組みを理解したうえで会社売却の対価設計に組み込むことには、いくつかのメリットがあります。
第一に、前述のとおり、役員退職金は分離課税かつ2分の1課税という計算方法の特性上、条件によっては株式譲渡代金として一括で受け取るよりも手取り額を増やせる余地がある点です。第二に、譲渡対価の一部を役員退職金として設計することで、買い手側が取得する株式の対価総額を抑えられるケースがあり、双方にとって交渉材料の一つになり得る点です。第三に、事業譲渡で従業員が転籍する場合、転籍時にそれまでの勤続分の退職金が清算されることで、従業員がまとまった資金を受け取れる場合がある点も、従業員にとってのメリットとして挙げられます。
いずれのメリットも、金額や条件が個々の状況によって大きく異なるため、実際の設計にあたっては専門家を交えたシミュレーションが欠かせません。
退職金の取り扱いで売り手が見落としがちなデメリット・リスク

メリットがある一方で、退職金の取り扱いには売り手が見落としがちなデメリットやリスクも存在します。事前に把握しておくことで、想定外の事態を避けやすくなります。
まず、役員退職金の金額が不相当に高額と判断された場合、超過部分が会社側で損金不算入となり、想定していたよりも法人税の負担が重くなるリスクがあります。功績倍率の算定根拠を客観的に説明できるよう準備しておくことが重要です。
次に、退職金原資となる資金繰りの問題です。退職金の支払いには相応のまとまった資金が必要になりますが、譲渡対価の入金タイミングと退職金の支払いタイミングがずれることがあり、事前に資金計画を立てていないと、支払いに窮する事態にもなりかねません。この点は後述の「会社売却の流れと退職金を決めるタイミング」で詳しく解説します。
また、事業譲渡で転籍に同意しない従業員が想定より多い場合、譲渡企業側が負担する退職金の総額が当初の見込みより膨らむリスクもあります。加えて、退職金規程や退職給付引当金の状況がDDで精査された際、規程と実態の乖離や簿外債務が発覚すると、譲渡価格の減額交渉につながる可能性がある点にも注意が必要です。
さらに、退職金の取り扱いについて買い手との合意が曖昧なまま契約交渉が進んでしまい、最終契約の直前になって条件面での認識違いが表面化し、交渉が長引いてしまうケースも見られます。
退職金の設計や条件が自社にとって妥当かどうか、契約を進める前に中立的な第三者の意見を聞いてみる
会社売却の流れと退職金を決めるタイミング

退職金の条件は、会社売却の交渉プロセスのどの段階で、どのように固まっていくのでしょうか。ここでは一般的な流れと、資金繰り面での注意点を確認します。
検討開始からクロージングまでの流れ
会社売却は、一般的に次のような流れで進みます。まず仲介会社・M&Aアドバイザーへの相談から始まり、自社の状況を整理した資料(企業概要書など)を準備します。その後、買い手候補への打診とトップ面談を経て、買い手候補が交渉を進める意向を示す意向表明書(LOI)が提示されることが一般的です。LOIの内容を踏まえて、売り手・買い手双方が主要条件について合意した基本合意書(MOU)を締結したうえでデューデリジェンス(DD)に進むのが基本的な流れですが、交渉相手が1社に絞られている案件などでは、LOIやMOUの一方を省略して次の段階に進むケースもあります。DDの結果を踏まえて条件を調整したうえで最終契約書(DA)を締結し、クロージング(決済・引き継ぎ)に至ります。検討開始からクロージングまでは、半年から1年程度が一つの目安とされていますが、案件の規模やDDの深さ、許認可の要否、資金調達の状況、労務上の論点の有無などによって、これより短くなることも長くなることもあります。
M&Aの一連の流れをより詳しく知りたい方は、こちらの完全ガイドも参考にしてください。

退職金の条件は、基本合意の段階でおおまかな方向性が合意され、DDで退職給付債務の実態が精査されたうえで、最終契約の段階で具体的な金額・支払い方法が確定していくのが一般的な流れです。早い段階から退職金についての希望を仲介会社や買い手候補に伝えておくことで、後工程での調整をスムーズに進めやすくなります。
退職金支払いの資金繰りで注意すべきこと
役員退職金や、転籍しない従業員への退職金は、クロージングの前後でまとまった資金を一括で支払う必要が生じるケースが少なくありません。譲渡対価の入金タイミングによっては、退職金の支払いに必要な資金を会社の手元資金や借入で一時的に賄う必要が生じることもあります。売却を検討し始めた早い段階で、退職金として支払う想定額と、その資金をいつ・どこから確保するのかを整理し、資金繰り計画に組み込んでおくことが、円滑な取引につながります。
業種・企業規模によって異なる退職金設定の論点

退職金の取り扱いは業種や企業規模によっても論点が変わってきます。ここでは、一般的な傾向として押さえておきたい視点を紹介します。
建設業・製造業・介護福祉業など、従業員数が比較的多い労働集約型の業種では、従業員退職金の総額(簿外の退職給付債務を含む)が譲渡価格全体に与える影響が相対的に大きくなりやすい傾向があります。こうした業種では、DDにおいて退職給付債務の精査に時間がかかることも多く、早期に退職金規程と実際の積立状況を整理しておくことが特に重要になります。
一方、士業法人やコンサルティング会社など、代表者や特定の役員個人の専門性・人脈が事業価値に直結しやすい業種では、役員退職金の設計そのものが対価設計全体に深く関わってくる傾向があります。事業の価値がヒトに紐づいている度合いが高いほど、役員退職金の金額や支給タイミングが、譲渡後の引き継ぎ期間の設計とも密接に関係してくることになります。
また、従業員数が数名程度の小規模企業では、退職金規程自体が整備されていないケースも珍しくありません。この場合、会社売却の検討を機に、退職金規程を新たに整備するかどうかも一つの論点になります。規程が存在しない場合でも、これまでの支給実績や労使慣行、中小企業退職金共済(中退共)への加入状況などから実質的な退職金債務の有無が問題になることがあるため、規程の有無にかかわらず実態を棚卸ししておくことが重要です。規程がないまま交渉を進めると、買い手側から退職金債務の見積もりが不透明だと指摘される可能性もあるため、早めに専門家に相談し、自社の状況に応じた対応方針を固めておくことが望ましいでしょう。なお、中退共に加入している場合、株式譲渡では契約主体である会社そのものが変わらないため通常は契約が継続しますが、会社分割・合併や、従業員の労働契約の権利義務が包括的に承継される事業譲渡等では、通算手続き(契約継続申出書の提出等)を経ることで契約を継続できる場合があります。個別の転籍同意に基づく一般的な事業譲渡では当然には継続しないため、制度の承継可否や手続きは類型によって異なり、中退共や社会保険労務士への事前確認が必要です。
退職金条件を買い手との交渉で不利にしないためのポイント

退職金の条件は、譲渡対価の手取り額や従業員の処遇に直結するテーマであるにもかかわらず、交渉の中で後回しにされ、結果として不利な条件のまま合意してしまうケースも見られます。ここでは、交渉を有利に進めるために押さえておきたいポイントを紹介します。
提示された退職金条件が妥当かどうか判断に迷う場合は、M&Aセカンドオピニオンの活用も検討してみてください。

第一に、交渉に入る前の段階で、自社の退職金規程や退職給付債務を正確に棚卸ししておくことです。曖昧な状態で交渉のテーブルに着くと、買い手側から提示された条件の妥当性を判断できず、言われるがままに合意してしまうリスクがあります。
第二に、役員退職金を設計する場合は、金額の根拠(最終報酬月額・在任年数・功績倍率の考え方)を資料として整理しておくことです。根拠が明確であるほど、買い手や税務当局への説明がスムーズになり、交渉における説得力も高まります。
第三に、退職金を譲渡対価の一部として組み込みたいのか、それとも切り離して考えたいのかという自身の希望を、できるだけ早い段階で仲介会社・買い手候補に伝えておくことです。方針が定まらないまま交渉が進むと、終盤になって条件を大きく変更せざるを得なくなることがあります。
第四に、提示された退職金の条件が一般的な水準や自社の実態と比べて妥当かどうか、一つの仲介会社や担当者の意見だけに頼らず、複数の専門家の意見を比較検討することです。退職金の設計は個々の状況によって最適解が異なるため、利害関係のない中立的な立場からの意見を聞くことで、条件の妥当性をより客観的に判断しやすくなります。
会社売却・退職金の実務でそのまま使えるチェックリスト

会社売却における退職金の検討を始める前に、以下の項目を確認しておくことで、後々のトラブルを避けやすくなります。
- 自社に退職金規程が存在するか、存在する場合はどのような計算方式(最終給与連動方式・別テーブル方式など)を採用しているかを確認できているか
- 退職給付引当金が実態に即して計上されているか、簿外の退職給付債務がないかを把握できているか
- 役員退職金を設計する場合、最終報酬月額・在任年数・功績倍率の根拠を資料として整理できているか
- 会社売却の手法(株式譲渡・事業譲渡・会社分割・合併)ごとに、退職金債務の承継や従業員の労働契約がどう扱われるかを理解できているか
- 転籍する従業員の勤続年数を通算するかどうかの方針を、譲受企業との間で確認できているか
- 退職金の支払いに必要な資金と、資金確保のタイミングを資金繰り計画に組み込めているか
- 提示されている退職金条件について、複数の専門家の意見を比較検討する機会を確保できているか
会社売却・退職金でよくある失敗パターンと対策

会社売却における退職金の取り扱いでは、いくつかの典型的な失敗パターンが見られます。多くは準備不足や情報共有の不足が原因で生じるものであり、事前に把握しておくことで同じ失敗を避けやすくなります。
退職給付引当金の計上が不十分なまま交渉を進め、DDの段階になって簿外の退職給付債務が発覚し、譲渡価格の減額交渉に発展してしまうケースがあります。対策としては、売却を検討し始めた早い段階で、退職金規程の内容と実際の積立状況を専門家とともに棚卸しし、必要であれば引当金の計上を見直しておくことが有効です。
役員退職金の功績倍率を高めに設定しすぎた結果、税務調査で不相当に高額と指摘され、想定していなかった法人税の追加負担が生じてしまうケースもあります。対策としては、功績倍率の設定根拠を同業・同規模の水準と比較しながら整理し、税理士に事前確認を依頼しておくことが挙げられます。
事業譲渡において、転籍に関する説明や退職金の取り扱いについて従業員への説明が後回しになり、転籍への同意が得られず、想定より多くの従業員に退職金を支払う事態になってしまうケースもあります。検討の初期段階から、開示できる範囲で従業員に方針を伝え、丁寧なコミュニケーションを重ねることが対策になります。
退職金の支払いに必要な資金計画を立てないまま交渉を進め、クロージング直前になって資金繰りに窮してしまうケースも見られます。譲渡対価の入金スケジュールと退職金の支払いスケジュールを早い段階からすり合わせ、必要に応じて金融機関への相談も並行して進めておくことが望ましいでしょう。
会社売却・退職金に関するよくある質問
会社売却をすると退職金は必ず支給されるのですか?
必ず支給されるとは限りません。退職金の支給は法律上の義務ではなく、就業規則や退職金規程で定めている場合に支払い義務が生じる仕組みです。まずは自社に退職金規程が存在するかどうかを確認することが出発点になります。
役員退職金と従業員退職金はどちらが節税につながりやすいですか?
一概にどちらが有利とは言えません。役員退職金は株式譲渡代金との組み合わせによる対価設計上の論点であり、従業員退職金は主に会社の損金算入や資金繰りの論点です。それぞれ計算の前提となる金額・勤続年数・その他の所得状況によって結果が変わるため、個別に税理士へ試算を依頼することをおすすめします。
退職金の相場はどのくらいですか?
退職金の金額は、勤続年数・役職・会社の退職金規程によって大きく異なるため、一律の相場を示すことはできません。役員退職金であれば功績倍率法(最終報酬月額×在任年数×功績倍率)、従業員退職金であれば各社の退職金規程に基づく計算式が基準となります。具体的な金額は、自社の規程や実績を踏まえて個別に算定する必要があります。
退職金にかかる税金はいつ、どのように納めるのですか?
退職金の支払いを受ける際、「退職所得の受給に関する申告書」を提出していれば、原則として支払者側が所得税・復興特別所得税を源泉徴収し、住民税は特別徴収されるため、受け取る個人が別途申告する必要は基本的にありません。一方、この申告書を提出していない場合は、退職金の額に一律20.42%の税率で所得税・復興特別所得税が源泉徴収され、確定申告で精算する必要があります。また、中退共からの退職金と会社からの退職金など、複数箇所から退職手当等を受け取る場合は、後から支払いを受ける側に対して先に支払われた退職手当等の源泉徴収票の提出が必要になることがあり、確定申告が必要になるケースもあるため、状況に応じて税理士に確認することをおすすめします。
退職金の支払いで資金繰りに困らないためにはどうすればよいですか?
譲渡対価の入金タイミングと退職金の支払いタイミングがずれる可能性があることを前提に、売却を検討し始めた早い段階で、退職金として支払う想定額と資金の確保方法を資金繰り計画に組み込んでおくことが重要です。必要に応じて、金融機関への相談も並行して進めておくとよいでしょう。
退職金の条件は買い手側と交渉できますか?
退職金の条件は、基本合意からデューデリジェンス、最終契約の各段階で調整される交渉事項の一つです。自社の希望(対価の一部として組み込みたいか、切り離したいかなど)を早い段階で仲介会社や買い手候補に伝えておくことで、交渉をスムーズに進めやすくなります。
まとめ
会社売却における退職金の取り扱いについて、基本知識から手法別の違い、役員・従業員それぞれの計算方法、かかる税金、活用するメリットと見落としがちなリスク、実務の流れ、業種・規模による論点、交渉のポイント、よくある失敗パターンまでを解説しました。最後に要点を整理します。
退職金の支給は法律上の義務ではなく、就業規則や退職金規程の定めによって支払い義務が生じます。会社売却で用いる手法(株式譲渡・事業譲渡・会社分割・合併)によって、退職金債務の承継のされ方や従業員の労働契約の扱いは大きく異なるため、自社がどの手法を採用するかを踏まえて検討することが欠かせません。役員退職金は功績倍率法による適正額の考え方と、分離課税・2分の1課税という退職所得の計算方法を理解したうえで、株式譲渡代金との組み合わせを設計する必要があります(ただし役員等勤続年数が5年以下の場合は、2分の1課税が適用されない特定役員退職手当等に該当する点に留意が必要です)。従業員退職金についても、転籍時の通算の有無や、退職給付債務の正確な把握が、円滑な取引と従業員の納得感の両方につながります。
退職金の設計や条件が自社にとって妥当かどうかは、勤続年数・役職・業種・企業規模など個々の事情によって判断が分かれます。「今提示されている条件が一般的な水準と比べて妥当なのか、一度第三者の意見を聞いてみたい」という場合は、ぜひ無料相談を活用してください。
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監修者情報
本記事は、一般社団法人M&Aセカンドオピニオン協会 代表理事・森沢雄太氏(日本M&Aセンター出身・M&A成約実績100件超)の監修のもと作成しました。記事内の情報は執筆時点(2026年7月)のものです。制度・統計・税制は今後変更・更新される可能性がありますので、最新情報は国税庁等の公的機関の公表資料でご確認ください。個別の税務・法務判断については、税理士・弁護士等の専門家にご相談ください。