© 2026 M&Aプロ.
SaaS・ソフトウェア事業の売却|ARR倍率による評価と相場

自社で開発・運営してきたSaaS(Software as a Service)事業について、「そろそろ売却を検討すべきだろうか」と考え始める経営者は少なくありません。月次の解約率(チャーンレート)が思うように下がらない、追加の開発投資や人材採用のための資金調達が難しくなってきた、あるいは後継者が社内に見当たらず事業の先行きに不安を感じている――こうした状況は、SaaSビジネスを育ててきた経営者であれば一度は直面するテーマです。
一方で、SaaS企業のM&A・売却には、一般的な中小企業のM&Aとは異なる独自の論点があります。ARR(年間経常収益)やチャーンレートといったSaaS特有の指標がどのように評価され、ソースコードや顧客データの引き継ぎがどのように扱われるのか、事前に理解しておかなければ、いざ交渉の場面で提示された条件が妥当かどうかを判断できません。
そこで本記事では、SaaS企業の売却を検討し始めた経営者に向けて、M&A市場の動向から評価指標、企業価値評価の考え方、具体的な手法や流れ、費用相場、そして失敗しやすいパターンまでを、基礎から体系的に解説します。
この記事の監修者

森沢 雄太
一般社団法人
M&Aセカンドオピニオン協会
代表理事
外資系銀行でのウェルスマネジメント業務を経て、日本M&Aセンターに入社。譲渡側アドバイザーとして100件超の成約に関与し、野村證券出向や福岡支店立ち上げも経験。2018年に日本投資ファンド立ち上げに参画し、投資先の再生にも成功。2022年、合同会社M&Aプレップを創業し、仲介会社・ファンドへの支援やオーナー向け売却準備、買収支援など幅広く展開。2024年には売却支援事業拡大のため株式会社企業経営支援機構を設立し代表に就任。加えて、M&Aにおける利益相反や情報格差の是正を目的とし、代表理事として一般社団法人M&Aセカンドオピニオン協会を設立。
SaaSとは何か?M&A・売却を検討する前に知っておきたい基礎知識

SaaS企業のM&Aを理解するには、まずSaaSというビジネスモデルの特徴を押さえておく必要があります。一般的な業種のM&Aと違い、SaaSは「モノ」ではなく継続的なサービス利用契約そのものが価値の源泉となる点が最大の特徴です。
M&A全体の意味・目的・手法・流れを基礎から確認したい方は、こちらの記事も参考にしてください。

SaaS(Software as a Service)の定義とビジネスモデル
SaaSとは、インターネットを経由してソフトウェアを提供する形態を指し、利用者は自らサーバーやソフトウェアを保有・管理する必要がありません。多くの場合、月額または年額の利用料を継続的に支払うサブスクリプション型の課金モデルが採用されており、この継続課金の仕組みが、後述するARR(年間経常収益)という評価指標の土台になっています。
似た概念としてIaaS(Infrastructure as a Service:サーバーやネットワークなどのインフラを提供する形態)、PaaS(Platform as a Service:アプリケーション開発・実行環境を提供する形態)がありますが、SaaSはエンドユーザーが直接利用する完成されたアプリケーションを提供する点で異なります。M&Aの文脈では、SaaS・PaaS・IaaSのいずれの層を提供する企業かによって、評価される技術資産や顧客層の性質も変わってくる点を押さえておくとよいでしょう。
SaaSビジネスがM&A市場で注目される理由
SaaSビジネスは、一度契約した顧客から継続的に収益が得られるストック型のビジネスモデルであるため、単発の売上に依存する業態と比べて将来収益の予測可能性が高いという特徴があります。この予測可能性の高さが、買い手企業や投資ファンドにとって「投資回収の見通しを立てやすい資産」として評価される理由の一つです。
また、SaaS企業は開発済みのプロダクト・顧客基盤・契約関係を一体として引き継げるため、買い手側にとってはゼロから開発するよりも早期に事業機会を獲得できる手段としても位置づけられています。加えて、SaaS企業は毎月・毎年の収益(ARR・MRR)が可視化されているため、買い手企業にとって将来キャッシュフローの見通しを立てやすく、投資判断を進めやすいという特徴もあります。
SaaS業界におけるM&A・売却市場の最新動向

SaaS業界のM&A・売却市場がどのように推移しているかを把握しておくことは、売却のタイミングを判断するうえで欠かせません。
国内SaaS市場の規模と成長
国内のSaaS市場規模については、複数の民間調査機関が推計を公表していますが、機関や算出方法によって対象範囲が異なるため、数値には幅があります。富士経済グループ(富士キメラ総研)が2025年9月3日に発表した、企業向けソフトウェア53品目を対象とする調査によれば、国内のSaaS/PaaS市場は2025年度に3兆円を上回る見込みで、2029年度には3兆3,975億円(2024年度比73.0%増)に達すると推計されています(出典:富士経済グループ「企業向けソフトウェア53品目の国内市場を調査」2025年9月3日発表)。コラボレーションやマーケティングといった分野ではパッケージ製品からの移行が先行しSaaS/PaaS比率が9割を超えている一方、バックオフィス業務や基幹系システムの分野でもクラウド化が進展するかたちで、市場全体の成長が続くとみられており、具体的な数値を参照する際は、調査年次や対象範囲(業務領域・企業規模など)を確認することが重要です。
SaaS業界でM&A・売却が活発化する背景
SaaS業界でM&A・売却が活発化している背景には、複数の要因が重なっています。第一に、創業経営者やベンチャーキャピタルにとって、IPO(株式公開)以外の投資回収手段(イグジット)としてM&Aが選択されやすくなっている点が挙げられます。第二に、事業会社が自社サービスとのシナジーを狙って、既に顧客基盤を持つSaaS企業を買収するケースが増えています。第三に、後継者不在に悩む中小企業が、事業承継の一手段としてM&Aによる第三者への引き継ぎを選ぶケースも増加傾向にあります。帝国データバンク「全国『後継者不在率』動向調査(2025年)」によれば、2025年の後継者不在率は50.1%であり、IT・ソフトウェア業を含む中小企業全体で後継者確保が引き続き課題となっていることがうかがえます(出典:帝国データバンク、2025年11月21日公表)。また、M&A情報を集計するレコフデータによれば、2025年(1〜12月)の日本企業のM&A件数は5,115件、金額は35兆7,437億円と、件数・金額ともに過去最高を更新しており(出典:レコフデータ「2025年のM&A回顧」)、SaaS業界に限らず日本全体でM&A・事業承継への関心が高まっていることも背景の一つといえます。
買い手企業の主なタイプ
SaaS企業を買収する主体は大きく3つに分類できます。一つ目は、既存事業とのシナジーを狙う事業会社です。自社の顧客基盤に新しいSaaSプロダクトを組み合わせることで、クロスセルや顧客単価の向上を図る狙いがあります。二つ目は、成長を見込んで投資するPE(プライベートエクイティ)ファンドです。複数のSaaS企業を買収して統合する「ロールアップ」型の投資戦略を取るファンドも存在します。三つ目は、同業のSaaS企業同士による買収で、競合の顧客基盤やプロダクトラインを取り込み、市場シェアの拡大を図るケースです。
近年は、複数の同業SaaS企業を段階的に買収し、バックオフィス機能やインフラを共通化することでコスト構造を改善する「ロールアップ」戦略を採るPEファンドや事業会社が増えています。単独では成長投資の原資を確保しづらい中小規模のSaaS企業にとって、こうした買い手の存在は、事業をより大きなグループの一員として継続させる選択肢の一つになっています。買い手のタイプによって、経営への関与度合いや、既存の従業員・ブランドをどこまで維持するかの方針も異なるため、自社が何を重視するかを整理したうえで買い手候補を検討することが望まれます。
SaaS企業のM&Aで重視される評価指標(KPI)

SaaS企業のM&Aでは、一般的な業種の財務指標に加えて、SaaS特有のKPI(重要業績評価指標)が重視されます。これらの指標を経営者自身が理解し、整理しておくことが、適切な評価を受けるための第一歩になります。
ARR・MRR(年間・月間の経常収益)
ARR(Annual Recurring Revenue:年間経常収益)は、サブスクリプション契約から得られる年間の継続収益を示す指標で、MRR(Monthly Recurring Revenue:月間経常収益)を12倍することで概算できます。単発の売上ではなく「今後も継続して見込める収益」を示すため、SaaS企業の企業価値評価における基礎的な指標として広く用いられています。
チャーンレート(解約率)とNRR
チャーンレートは、一定期間内に解約した顧客の割合を示す指標です。チャーンレートが高い、つまり解約が多いSaaS事業は、将来の収益の安定性に疑問符が付くため、企業価値評価においてマイナス要因となりやすい点に注意が必要です。近年ではさらに、既存顧客からの収益が契約更新・アップセル・解約を通じてどう変化したかを示すNRR(Net Revenue Retention:純収益維持率)も重視されるようになっています。NRRが100%を超えていれば、既存顧客からの収益が解約分を上回って増加していることを意味し、買い手企業からの評価が高まりやすい傾向があります。
LTV・CACとRule of 40
LTV(Life Time Value:顧客生涯価値)は一人の顧客から生涯にわたって得られる収益の見込み額を、CAC(Customer Acquisition Cost:顧客獲得コスト)は新規顧客を一人獲得するためにかかったコストを示します。LTVがCACを大きく上回っているほど、収益性の高いビジネスモデルであると評価されます。また、売上成長率と営業利益率を合計した数値が40%以上であるかを見る「Rule of 40」という考え方も、成長性と収益性のバランスを測る目安として言及されることがありますが、これはあくまで実務上の経験則であり、公的に定められた評価基準ではない点に留意してください。このほか、売上高から売上原価を差し引いた粗利率(Gross Margin)、投下したCACを何ヶ月で回収できるかを示すCAC回収期間、既存顧客からの収益が解約・ダウングレードを除いてどれだけ維持されているかを示すGRR(Gross Revenue Retention)なども、買い手企業がSaaS事業の収益構造を評価する際に参照する指標として挙げられます。いずれも法令等で定められた統一基準はなく、業界内の実務慣行として用いられている点に留意してください。
SaaS企業の企業価値評価と売却相場の考え方

SaaS企業の売却相場は、一般的な業種以上に評価手法や前提条件によって大きく変動します。断定的な金額を提示する情報には注意し、あくまで目安として捉えることが重要です。
主な企業価値評価の手法
企業価値評価には複数のアプローチがあり、それぞれ得意とする場面が異なります。
| 評価手法 | 概要 | SaaS企業評価での位置づけ |
|---|---|---|
| ARRマルチプル法 | ARRに一定の倍率を掛けて評価額を算定する簡易的な手法 | SaaS業界で実務上よく参照されるが、公的な標準倍率は存在しない |
| DCF法(ディスカウント・キャッシュフロー法) | 将来生み出すキャッシュフローを現在価値に割り引いて評価する手法 | 成長性の高いSaaS事業の将来性を織り込みやすい一方、将来予測の前提次第で評価額が大きく変動する |
| EBITDAマルチプル法 | 営業利益に減価償却費を加えたEBITDAに倍率を掛ける手法 | 黒字化しているSaaS企業で用いられやすいが、赤字段階のSaaS企業には適用しにくい |
| 純資産法 | 貸借対照表上の純資産をベースに評価する手法 | 保有資産が少ないSaaS企業では評価額が実態より低く出やすく、単独では使われにくい |
| 年買法 | 純資産に数年分の利益(営業権)を加算する手法 | 中小企業のM&Aで簡易的に用いられるが、単独ではなく他の手法と組み合わせて参考にされることが多い |
ARRマルチプルによる評価の考え方
SaaS業界の実務では、ARRに一定の倍率(マルチプル)を掛けて評価額の目安とする手法がしばしば参照されます。ただし、この倍率は成長率、チャーンレート、収益性、市場環境などによって大きく変動し、公的機関が定めた標準的な倍率は存在しません。同じARR規模の企業であっても、成長率や解約率、収益性の違いによって評価額が数倍単位で異なることもあるため、「ARRの何倍」という数字だけを鵜呑みにせず、自社の実態に即した評価を専門家に相談することが望まれます。なお、買収価格が対象企業の純資産(時価評価後)を上回った場合、その差額は会計上「のれん」として計上されます。日本基準では、のれんは原則として20年以内の一定期間で規則的に償却されるのに対し、国際会計基準(IFRS)では償却を行わず毎期の減損テストで評価する取扱いとなっており、買い手企業がどちらの会計基準を採用しているかによって財務上の影響の出方が異なる点も、買い手側の判断材料の一つになります。
評価額を左右する変動要因
SaaS企業の評価額は、ARRの大小だけで決まるわけではありません。成長率の高さ、チャーンレートの低さ、NRRの高さ、特定の大口顧客への依存度、ソースコードの品質や技術的負債の有無、キーパーソンとなるエンジニアの定着状況など、多角的な要因が複合的に影響します。同程度のARR規模であっても、これらの要因次第で評価額に大きな差が生じる点は、経営者自身が理解しておくべきポイントです。
SaaS企業を売却する主な手法:株式譲渡と事業譲渡の違い

SaaS企業のM&Aで用いられる代表的なスキームは、株式譲渡と事業譲渡の2つです。どちらを選択するかによって、税務上の扱いや手続きの複雑さが変わってきます。
株式譲渡とは
株式譲渡は、会社の株式を買い手に譲渡することで経営権を移転する手法です。法人格はそのまま維持されるため、契約関係や許認可、従業員との雇用契約なども原則として包括的に引き継がれる点が特徴です。個人株主が株式を譲渡して得た譲渡益には、申告分離課税として20.315%(所得税及び復興特別所得税を合わせた15.315%と、住民税5%の合計)の税率が適用されます(出典:国税庁「No.1463 株式等を譲渡したときの課税(申告分離課税)」)。このうち復興特別所得税は2013年から2037年までの時限的な税であるため、適用期間終了後は税率の前提が変わりうる点にも留意してください。また、この税率は個人株主が譲渡する場合に限定される点にも注意してください(法人株主が譲渡する場合は別の課税関係になります)。
株式譲渡の仕組みや手続きの詳細は株式譲渡で詳しく解説しています。
事業譲渡とは
事業譲渡は、会社が保有する事業の一部または全部(プロダクト・顧客契約・従業員など)を個別に買い手へ譲渡する手法です。法人格ごと引き継ぐ株式譲渡とは異なり、法人全体ではなく特定の事業・資産だけを個別に引き継ぎたいケースで選ばれやすい傾向があります。なお、法人格を持たない個人事業主が運営する小規模なSaaSプロダクトを譲渡する場合は、会社法上の事業譲渡ではなく、民法上の資産譲渡契約(ソースコードや顧客リストなど個々の権利の移転)として整理されるのが一般的です。会社法467条により、事業の全部を譲渡する場合には、原則として株主総会の特別決議が必要です(同条1項1号)。事業の一部を譲渡する場合は、譲渡する資産の帳簿価額が会社の総資産額の5分の1(定款でこれを下回る割合を定めている場合はその割合)を超えないときに限り、「重要な一部の譲渡」に該当せず特別決議が不要とされています(同条1項2号)。ただし、この5分の1基準はあくまで決議が不要となる下限を示すものであり、5分の1を超えたからといって自動的に「重要な一部の譲渡」に該当し決議が必要になると機械的に決まるわけではありません。譲渡する事業が売上高・利益・従業員数等の面で会社全体に占める割合や、事業への影響の大きさなども踏まえて総合的に判断されるため、該当性の判断に迷う場合は専門家に確認することが望まれます。
事業譲渡の詳しい仕組みは事業譲渡で詳しく解説しています。
株式譲渡と事業譲渡の比較
| 項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡 |
|---|---|---|
| 移転の対象 | 会社そのもの(株式) | 特定の事業・資産のみ |
| 契約関係の引き継ぎ | 原則として包括的に承継 | 個別に契約の巻き直しが必要な場合が多い |
| 手続きの複雑さ | 比較的シンプル | 資産・契約ごとの個別移転が必要でやや煩雑 |
| 主な活用場面 | 法人ごと・チームごと事業を引き継ぐ場合 | プロダクト単体・個人開発の事業を引き継ぐ場合 |
SaaS企業を売却するメリット

SaaS企業を売却することには、経営者にとっていくつかの重要なメリットがあります。
資金確保とイグジットの実現
売却によってまとまった資金を一括で確保できることは、最も分かりやすいメリットです。特に創業からの投資回収(イグジット)を果たしたい経営者にとって、M&Aは株式公開(IPO)以外の現実的な選択肢となります。得られた資金は、次の事業への再投資や、個人としての将来設計に充てることができます。
事業の継続性と従業員の雇用確保
自社単独では成長投資や人材採用が難しくなってきた場合でも、資本力のある買い手企業の傘下に入ることで、開発体制の強化やマーケティング投資の拡大など、事業がより大きな規模で継続していく可能性が広がります。従業員にとっても、雇用や処遇が維持されたまま、より安定した経営基盤のもとでキャリアを積める機会になり得ます。特にSaaS事業では、開発・カスタマーサクセス・マーケティングなど専門性の高い職種の人材確保が経営課題になりやすく、資本力のある買い手企業の傘下に入ることで、こうした専門人材の採用や育成にリソースを割きやすくなる点も、従業員にとってのメリットの一つとして挙げられます。
経営者自身の次のステージへの移行
長年一つの事業に向き合ってきた経営者にとって、売却は次の挑戦へ踏み出す契機にもなります。事業の運営を買い手に引き継ぐことで、経営者自身は新たな事業の立ち上げや、これまで後回しにしてきた課題への取り組みに時間を充てられるようになります。
SaaS企業を売却する際のデメリット・リスク

売却にはメリットがある一方、事前に理解しておくべきデメリットやリスクも存在します。
デューデリジェンスで発覚しうる技術的負債
M&Aの過程では、買い手側がデューデリジェンス(DD:買収監査)を実施し、対象企業の財務・法務・技術面を精査します。SaaS企業特有の論点として、ソースコードの品質や設計の妥当性、オープンソースソフトウェア(OSS)のライセンス管理状況などが精査対象となり、これまで顕在化していなかった技術的負債が発覚するケースがあります。技術的負債の内容によっては、評価額の減額交渉につながる可能性もあるため、売却を検討する段階からコードやドキュメントの整備を進めておくことが望まれます。
併せて、デューデリジェンス(DD)の目的・種類・流れについては、こちらで詳しく解説しています。
キーエンジニア・顧客の流出リスク
SaaSプロダクトの開発・保守を担うキーエンジニアが、経営権の変更(チェンジ・オブ・コントロール)を機に離職してしまうと、プロダクトの継続的な開発体制に支障が出るおそれがあります。同様に、特定の大口顧客に収益が偏っている場合、経営者の交代を理由に解約されるリスクも考慮する必要があります。
ロックアップ・アーンアウトへの対応
買い手企業から、売却後も一定期間は経営者自身が引き続き会社に関与することを求められる場合があります。これはロックアップ、またはキーマン条項と呼ばれ、円滑な引き継ぎを目的として設定されることが一般的です。また、譲渡対価の一部について、売却後一定期間の業績達成度に応じて追加で支払われる「アーンアウト条項」が設定されるケースもあります。アーンアウトはあくまで対価の支払い方法に関する条項であり、経営者本人が引き続き経営に関与する義務(ロックアップ)とは別の概念である点に注意してください。売却後すぐに完全に手を引きたいと考えている経営者にとっては、これらの条件が想定と異なる負担に感じられることもあるため、交渉の初期段階で条件を確認しておくことが重要です。
こうした技術面・契約面のリスクは、専門的な知見がなければ見落としやすいポイントでもあります。仲介会社やアドバイザーから提示された条件が自社にとって本当に妥当なのか、判断に迷う場面も出てくるでしょう。
売却条件の妥当性について判断に迷う場合は、第三者の視点で確認してみることも一つの方法です。
SaaS企業M&A・売却の流れ

SaaS企業のM&A・売却は、一般的に以下のようなステップを経て進みます。それぞれの段階でおおよその期間の目安を把握しておくと、全体のスケジュール感がつかみやすくなります。
| ステップ | 内容 | 期間の目安 |
|---|---|---|
| 準備・情報整理 | ARR・チャーンレートなどのKPI整理、ソースコード・契約書類の棚卸し | 1〜3ヶ月 |
| ノンネームシート・IM(企業概要書)の作成 | 企業名を伏せた概要書(ノンネームシート)、詳細な企業概要書(IM)を準備 | 2週間〜1ヶ月 |
| 買い手候補の選定・打診 | 仲介会社等を通じて買い手候補へ打診、秘密保持契約(NDA)を締結 | 1〜3ヶ月 |
| トップ面談 | 経営者同士が直接対話し、事業への理解や相性を確認 | 数回・1〜2ヶ月 |
| 意向表明書(LOI)の提出・基本合意書(MOU)の締結 | 買収価格や独占交渉権、DD実施方針など条件の大枠を確認・合意(秘密保持・独占交渉権など一部の条項には法的拘束力が生じる場合がある) | 2週間〜1ヶ月 |
| デューデリジェンス(DD) | 財務・法務・技術面の詳細な精査 | 1〜2ヶ月 |
| 最終契約書(DA)の締結・クロージング | 最終的な契約条件を確定し、株式や事業の引き渡しを実行 | 2週間〜1ヶ月 |
M&A全体の標準的な進め方(検討・準備からクロージングまで)を体系的に確認したい方はこちら。

特にSaaS企業のデューデリジェンスでは、財務・法務面の精査に加えて、ソースコードの品質や設計の妥当性、インフラのセキュリティ体制を確認する「技術デューデリジェンス」が実施されることがあります。外部の技術顧問やエンジニアが第三者の立場でコードレビューを行うケースもあり、一般的な業種のM&Aと比べて専門的な精査項目が加わる点は、あらかじめ想定しておくとよいでしょう。
全体としては、準備開始からクロージングまで半年から1年程度を要するケースが一般的とされています。ただし、買い手候補の選定状況や条件交渉の難航度合いによって、期間は大きく前後する点に留意してください。
なお、LOI(意向表明書)は買い手が売り手に対して買収の意向を伝える書面であるのに対し、MOU(基本合意書)は両者が合意した条件を確認し合う書面という位置づけの違いがあります。最終契約書(DA)には、売り手が開示した財務・法務・技術情報が事実と相違ないことを保証する「表明保証」条項が盛り込まれるのが一般的で、内容に虚偽があった場合は損害賠償の対象となり得ます。また、譲渡対価の一部を一定期間第三者機関に預け置き、表明保証違反等が判明した場合の補償原資とする「エスクロー」という仕組みが用いられることもあります。
SaaS企業の売却にかかる費用・手数料

M&A仲介会社やFA(ファイナンシャル・アドバイザー)を利用する場合、成功報酬を中心とした手数料が発生します。
レーマン方式による手数料の算定
M&A仲介会社の多くは、レーマン方式と呼ばれる算定方法で成功報酬を算出しています。レーマン方式には、譲渡金額そのものに料率を掛ける「株価ベース」と、譲渡金額に負債額を加えた金額に料率を掛ける「移動総資産ベース」の2種類があり、どちらを採用するかで報酬額が変わってくる点に注意が必要です。
| 譲渡金額(取引金額)の区分 | 一般的な料率の目安 |
|---|---|
| 5億円以下の部分 | 5% |
| 5億円超10億円以下の部分 | 4% |
| 10億円超50億円以下の部分 | 3% |
| 50億円超100億円以下の部分 | 2% |
| 100億円超の部分 | 1% |
※上記はレーマン方式で一般的に参照される料率の目安であり、法令で定められた統一料率ではありません。中小M&Aガイドライン第3版(2024年8月30日公表、2025年1月1日適用)では、契約締結前に算定方法や最低報酬額を書面で明示することが仲介者・FAに求められています(出典:中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」)。実際の料率は仲介会社ごとに異なるため、契約前に必ず書面で確認してください。
最低報酬額の存在
譲渡金額が小さい案件では、レーマン方式で算出した金額が仲介会社の設定する最低報酬額を下回ることがあります。この場合、最低報酬額が適用されるため、想定より手数料負担が重くなる可能性がある点も、契約前に確認しておきたいポイントです。
SaaS企業の売却における独自の論点

SaaS企業の売却では、一般的なM&Aではあまり語られない、SaaS特有の実務上の論点があります。
売却後の顧客・サービス継続の実務
M&A後にプロダクトやサービス、組織を統合していくプロセスは一般にPMI(Post Merger Integration)と呼ばれますが、SaaS企業の売却では、経営権の移転後も既存顧客へのサービス提供を途切れさせないことが特に重要になります。顧客との間で締結しているSLA(サービス品質保証)の継続、サブスクリプション契約の巻き直しの要否、カスタマーサポート体制の引き継ぎなどを、クロージング前から具体的に計画しておく必要があります。売却の発表タイミングや顧客への告知方法を誤ると、解約(チャーン)の増加につながりかねないため、買い手企業とすり合わせたうえで、慎重にコミュニケーション計画を立てることが望まれます。
法務・データ・セキュリティ面の論点
SaaS企業の売却では、顧客の個人情報や利用データの取り扱いを整理しておく必要があります。個人情報保護法上、事業譲渡や合併など事業の承継に伴って個人データを提供する場合、提供先は「第三者」に該当せず、原則として本人の同意を取得しなくても提供できるとされています(出典:個人情報保護法27条5項2号、個人情報保護委員会「合併や組織再編等を行う事業者の方へ」)。承継した個人データについては、原則として承継元が本人に示していた利用目的の範囲内で利用する義務を引き継ぐ点には注意が必要です。また、最終契約締結前のデューデリジェンス段階で買い手候補に個人データを開示する必要が生じる場合もありますが、この取り扱いは実務上グレーゾーンとされる部分もあるため、まず匿名化・集計化した情報で足りるかを検討したうえで、個人データを開示する場合も必要最小限にとどめ、秘密保持契約に加えて利用目的や安全管理措置を定めた契約を締結するなど、慎重に対応することが重要です。あわせて、プロダクトに組み込まれているオープンソースソフトウェア(OSS)のライセンス条件が、買収後の商用利用や再配布の制約になっていないかも、デューデリジェンスで確認される重要な論点です。さらに、主要な取引先との契約書に「チェンジ・オブ・コントロール条項(経営権の変更があった場合に契約解除や再協議を可能にする条項)」が含まれていないかも、事前に洗い出しておく必要があります。加えて、SaaSプロダクトがクラウドサービス上で稼働している場合、クラウドベンダーとの利用契約がそのまま買い手に引き継げるかは契約条項次第であり、チェンジ・オブ・コントロール条項の有無とあわせて、契約名義の変更手続きが必要になるかも確認しておくべき点です。海外のクラウドベンダーを利用している場合は、データの越境移転に関する規約が影響することもあるため、契約書を一度整理しておくと、デューデリジェンスの際にスムーズに対応できます。
SaaS企業の売却を成功させるポイント

SaaS企業の売却を検討する際、以下のチェックリストを参考に準備状況を確認してみてください。
- ARR・MRR・チャーンレート・NRRなど主要KPIを、根拠となるデータとあわせて整理できているか
- ソースコードの権利関係、OSSライセンス、技術ドキュメントの整備状況を把握しているか
- 特定の大口顧客への依存度が高すぎないか、収益の分散度を確認しているか
- キーエンジニアなど、事業継続に欠かせない人材の定着状況を把握しているか
- 顧客との契約書にチェンジ・オブ・コントロール条項がないか確認しているか
- 売却の目的(資金確保なのか、事業継続なのか、後継者不在への対応なのか)を明確にできているか
- 複数の評価手法を比較したうえで、自社の評価額について納得できる根拠を持てているか
SaaS企業のM&Aで失敗しやすいパターンと対策

SaaS企業のM&Aでは、いくつかの典型的な失敗パターンが見られます。
一つ目は、ARRの数字だけを根拠に高い評価額を期待してしまい、チャーンレートの高さや大口顧客への依存といったマイナス要因が考慮された結果、想定より低い評価額を提示されて交渉が難航するケースです。KPIは良い面だけでなく弱点も含めて客観的に整理し、想定される評価額の幅を事前に把握しておくことが対策になります。
二つ目は、デューデリジェンスの段階になって初めて技術的負債やOSSライセンスの問題が発覚し、交渉が振り出しに戻ってしまうケースです。売却を検討し始めた早い段階から、ソースコードやドキュメントを整備しておくことで、この種のトラブルは大きく軽減できます。
三つ目は、キーエンジニアへの説明や配慮を後回しにした結果、クロージング前後で退職者が出てしまい、プロダクトの継続的な開発体制に支障をきたすケースです。従業員への告知タイミングやコミュニケーション計画は、買い手企業とも十分にすり合わせておく必要があります。
四つ目は、複数の仲介会社やアドバイザーから提示された評価額や条件の妥当性を十分に検証しないまま、一つの提案を鵜呑みにしてしまうケースです。仲介会社は成約に向けて助言を行いますが、売り手自身が納得できる根拠を持って判断することが、後悔のない売却につながります。
五つ目は、売却の目的が曖昧なまま交渉に臨んでしまい、買い手企業が提示する条件(ロックアップ期間や雇用条件など)と自身の希望との間にズレが生じるケースです。まとまった資金の確保を最優先したいのか、事業やプロダクトの継続を重視したいのか、あるいは後継者不在の解消を目指すのかによって、交渉で優先すべき条件は変わってきます。条件面での妥協点を探る前に、自分自身が何を最も重視するのかを明確にしておくことが、後悔のない意思決定につながります。
SaaS企業のM&A・売却に関するよくある質問(FAQ)
Q1. SaaS企業の売却相場はどのように決まりますか?
A. ARRマルチプル法やDCF法など複数の評価手法を組み合わせて算定されるのが一般的です。ただし、成長率・チャーンレート・収益性など多くの要因によって評価額は大きく変動するため、断定的な相場を示すことはできません。専門家に自社の実態を踏まえた評価を依頼することをおすすめします。
Q2. 赤字のSaaS企業でも売却できますか?
A. 可能です。SaaS企業の評価では、現時点の利益よりも将来の成長性やARRの伸び、顧客基盤の質が重視される傾向があるため、赤字であっても将来性が評価されれば売却の対象となり得ます。
Q3. 個人開発の小規模なSaaS(マイクロSaaS)でも売却対象になりますか?
A. なります。近年は資産譲渡契約の形で、個人開発者が運営する小規模なSaaSプロダクト単体を譲渡する事例も見られます。ただし、規模が小さいほど評価額も相応に小さくなる点、レーマン方式の最低報酬額が相対的に負担となりやすい点には留意が必要です。
Q4. 売却を仲介会社に相談する前に、社内で何を準備しておくべきですか?
A. ARR・チャーンレート等のKPI、顧客との契約内容、ソースコードやドキュメントの整備状況を棚卸ししておくことが望まれます。あわせて、仲介会社から提示される条件や評価額が妥当かどうかを客観的に判断できるよう、中立的な第三者の意見を聞いておくことも一つの方法です。
Q5. 従業員や顧客への告知はいつ行うべきですか?
A. 告知の時期は案件の性質や契約先・従業員構成によって異なりますが、情報漏えいや人材流出、顧客の解約(チャーン)を防ぐ観点から、最終契約の締結後からクロージングの前後にかけて行われることが多いとされています。ただし、キーパーソンへの早期の説明や、契約上の承諾が必要な取引先がある案件では、最終契約前の段階で限定的に情報が共有されることもあります。SaaS事業では特に顧客の解約リスクが懸念されるため、告知のタイミングや伝え方については、買い手企業と事前に綿密にすり合わせておく必要があります。
Q6. M&Aの相談先はどのように選べばよいですか?
A. 仲介会社やアドバイザーは成約に向けて助言を行う立場である一方、売り手が提示された条件を客観的に判断するための情報を十分に持てないケースもあります。仲介会社やアドバイザーを批判する必要はありませんが、提示された評価額や条件が自社にとって妥当かどうか、中立的な第三者にセカンドオピニオンを求めるという選択肢も、判断材料の一つとして検討してみてください。
提示された評価額・条件の妥当性に迷ったら、中立的なセカンドオピニオンという選択肢も検討してみてください。

Q7. 売却の検討を始めたことは、いつ・誰に伝えるべきですか?
A. 検討の初期段階では、秘密保持を前提に社内外への情報共有を必要最小限にとどめるのが一般的です。実務としては、まず顧問税理士や弁護士など普段から経営の相談をしている専門家と方向性を整理し、その後、秘密保持契約(NDA)を締結した仲介会社や買い手候補との間で段階的に情報を開示していく進め方が取られます。従業員や取引先への告知時期は案件の性質によって異なり、最終契約の締結後からクロージングの前後にかけて行われることが多い一方、キーパーソンの引き継ぎや取引先の承諾が必要な案件では、より早い段階で限定的に情報が共有されるケースもあります。早期の噂の拡散が事業運営に悪影響を及ぼさないよう、開示の範囲とタイミングは慎重に検討する必要があります。
まとめ
SaaS企業の売却は、資金確保やイグジットの実現、事業の継続性確保、経営者自身の次のステージへの移行など、経営者にとって複数の意味を持つ選択肢です。一方で、ARRやチャーンレートといったSaaS特有の評価指標の理解、技術的負債やOSSライセンスといった法務・技術面のリスク、キーエンジニアや顧客の流出リスクなど、事前に押さえておくべき論点も少なくありません。
企業価値評価の手法や売却の流れ、費用相場について正しい知識を持ったうえで、複数の視点から検討を進めることが、納得できる売却につながります。また、売却を検討する過程そのものが、自社のKPIや事業運営上の課題を客観的に見直す機会にもなります。たとえ最終的に売却という結論に至らなかったとしても、企業価値評価の視点から自社を見つめ直すプロセスは、今後の経営判断にも活きるはずです。仲介会社やアドバイザーから提示された条件が自社にとって本当に妥当なものか判断に迷う場合は、一人で抱え込まず、第三者の視点を借りることも選択肢に入れてみてください。
完全無料・成功報酬なしの中立的な立場からセカンドオピニオンを相談する
監修:森沢雄太氏(一般社団法人M&Aセカンドオピニオン協会 代表理事/日本M&Aセンター出身/M&A成約実績100件超)